「日記」というものが、「文学」の中の一つのジャンルであると言えるなら、
今、私が一番とりつかれているのは、この「日記」かもしれない。
「xx年xx月xx日 ○○した。」という単純な繰り返しのどこに、そんな魅力があるのだろう。

「日記」が、誰かに「読まれる」可能性を少しも意識していないといえば、それはウソだと思うれど、
少なくとも出版界の「本」のように「売れる」」可能性は意識しなくていいはず。
そういう意味で、「日記」には筆者の「本当の心」、もしくは「本音」に限りなく近い心情が映し出される。
食べ物の味で言えば、それはあくの強い「えぐみ」かもしれない。
けれど、それこそが「本物の味」であるような気がする。それこそが、私が知りたいと思っている「本当のこと」。

私自身のことを言えば、日記は二十歳ぐらいの時から細々と続けている。
普通の大学ノートに、書きたいときだけ書くような自由日記。その数30冊ぐらいにはなったかな。
20年間、日記を続けてみて感じたこと。
それは、記憶というのは、案外あいまいなものだということ。
そして、ものの感じ方や考え方も、歳をとるにつれ、確実に変わっていくということ。
あんなに頑なに信じていた「信念」も、今読み返せばただの「青臭さ」であり、「偽善」に見えなくもない。
けれど、裏を返せば、それはもう今では決して手に入れることのできない「純粋さ」であり「イノセンス」。

インターネット時代になって、個人のページへいけば、必ずといっていいほどこの「日記」のページがある。
公開されているのだから、間違いなく「読まれる」ことを意識して書かれているはず。
ちょっとした「かっこつけ」や「いい人ぶりっこ」はあっても、基本的には「限りなく本音に近い心情の吐露」
であるはずだから、共感できる場所に遭遇したときは、至福のときになる。
顔も知らない誰かと、同じ地球で、同じ時間を似たような心で共有している不思議さ。
ネット上の「日記」の魅力は、まだまだ奥が深いような気がする・・。